visual philosophy salon
vol.0
at Apple Store Ginza
2008/05/10
瀧健太郎 『prologue』
河合:ありがとうございました。今日はちょっと瀧さんはいらっしゃっていないんですけど、ぼくはこの作品はとても面白いと思うんです。今までいろいろな作品を見てきましたけれども、まあ、ヴィデオとか映像とかっていうのは普段みなさん接せられているときには、やはりイメージの表面みたいなものと接することが普通だと思うんですね。そこにある情報だとか、何か表れている、たとえばそこに登場する主人公の物語だとか、あるいはその主人公の見かけだとか、そういう表面に表れているものと接するのが普通だと思うんですね。
だけれども、じつは映像とかヴィデオっていうのには、その後ろに、その思想だったり歴史だったりというものがあると思うんですね。たとえばヴィデオはどういうふうにして生まれたか、あるいはヴィデオのお父さんともお母さんとも言える映画だったり美術だったりというものの、そういうものの中からヴィデオが生まれてきたりとか、そういう歴史だったり、あるいはそのヴィデオという比較的新しい表現形態を、それをどういうふうに捉えるのか、どういう意味があって社会的にどういう意味があってどういうツールなのか、そういうふうに考える、いろいろなヴィデオの背後にある思想があると思うんですね。そういうヴィデオの後ろにある思想だったり歴史だったりというものに、普段私たちが映像に囲まれて生きていても、まあ接することはほとんどないと思うんですね。
だけれども、たとえばこの瀧さんの作品が面白いと思うのはですね、そういうヴィデオの後ろにある思想と歴史みたいなものを、何か『ヴィデオの歴史』とかいう本をたとえばひもといて、それを読むというような形で知るのではなくて、ヴィデオのイメージのじつは裏側にあるそういう歴史とか思想みたいなものを、もう1回ヴィデオの表に出してやるということをやっている気がします。
それで、瀧さんの映像のテクニックと言いますか、表現の方法によって、それをヴィデオのイメージとして、すごく巧妙に見せるというか、それでこちらがただ見させられている間、表面を見ていると思っている間に、その裏側みたいなものに入り込んでしまって裏側みたいなものを見させられているというか、何かそういう作品のような気がしますね。そういうところがこの作品のとても面白いところだと思います。
次:河合政之 『スペクタクルの社会における神学的状況について』
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