visual philosophy salon

vol.0

at Apple Store Ginza

2008/05/10

河合政之 

『スペクタクルの社会における

神学的状況について』





河合:次はもう最後なんですけれども、ちょっと私自身の作品を見ていただきたいと思うのですが、ぼくの作品を上映する前に軽く作品についてお話ししようかなと思います。


次にやる私の作品は、それこそですね、日常に溢れている映像の典型的なもの、それはやはりテレビだったりとか、あるいは街の、私たちが普段歩いている街だったりとか、そういう本当に見慣れたもの、何も映像そのものには取り立てて目新しいところとか美しいところは何もないような、そういう映像を使っています。

そういう見慣れたイメージがわれわれの周りにあるときにどんなふうに現れてくるかというとですね、たとえばテレビだとか街の看板だとか、そういうので現れてくるときにはですね、それについてあまり感じたりとか、考えたりとか、そういうことはしないようにできていると思うんですね。たとえばCMとかだったら、それを見て買いたいとか情報を得るとかいうことはあるけれども、このCMは何なのだろう、これは本当だろうか嘘だろうかとか、こんなことには何の意味があるんだろうかとか、そうやって考えたりとか感じたりとかするふうにはできていないと思うんですね。つまり言ってみればテレビとか、街の看板みたいなものは、「ものを考えるな、ものを感じるな光線」みたいなのをイメージを使ってバーッと発しているような感じだと思うんです。

ぼくの次の作品は、これはちょっと古い作品で7年前くらいにつくった作品なんですけど、そういうイメージを使いながら、挑発するというひとつの方法を使ってですね、そういう街に溢れたような、われわれがいつも見ているようなテレビだとかそういうイメージを、別な使い方で見せる。だから同じイメージでも使い方によって、本来それが考えないもの、あるいは感じないものだったはずが、それを考えるもの、感じるもの、あるいは何か問いかけるものに変えることができる。それもまたひとつの映像アートの表現の方法だと思うんですね。そういう映像として、とくにひとつの挑発する手段、挑発する方法みたいなものを使ってつくってみた作品です。それではご覧ください。




ありがとうございました。この作品についてですが、ちょっとお話しすると、言葉がたくさん出てきますけれども、そしてその言葉は、いろいろな哲学的な言葉であったりとかして、まあ読んですぐに理解できる言葉ではもちろんないですね。それはもちろんそういうふうには思ってつくっているわけではないんですね。

だけれども、この作品を見て感じていただけたらと思うのは、やはり言葉も映像だということなんですね。つまりここに出てくる言葉というのも、その言葉も映像の一部分であるし、もちろん文字というのはひとつの映像、イメージとして出てきて、そしてそれを頭で考えるということ以前に、映像と一体化して言葉が出てくることによって、さらに何て言うのかな、普通の言葉で本を読んで考えるということを超えてですね、その言葉を感じるというか、言葉の中にある思想みたいなものを感じる、そういうことがやはり映像というのはできるんじゃないか、というふうに思っています。

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