visual philosophy salon

vol.0

at Apple Store Ginza

2008/05/10

GOLDENSHIT
(服部かつゆき、新村雄亮) 


『暴れこいのぼり』





GOLDENSHIT のアーティストの服部かつゆきさんと新村雄亮さん、GOLDENSHIT のおふたりに来ていただいていますので、ちょっとお話を伺いたいと思います。みなさま、拍手でお迎えください。

 

とても格好いいパフォーマンスだと思うんですが、GOLDENSHIT のコンセプトは、まずぼくが聞いてすごく面白いと思ったのはですね、ヴィデオというと、やはりみなさんヴィデオにはイメージがつきものだと、何かを、まあ人だとか物だとか、モノを撮ったものがヴィデオだという考え方が普通にあると思うんですけれども、GOLDENSHIT のおふたりの基本的なコンセプトというのは、まずヴィデオはイメージではないと、ヴィデオは電気の信号だということですよね。

 

服部:そうですね、まあその石田さんの作品と比べるとそこが大きく違うと思うんですけれども、映画とかヴィデオとか写真とか、比較的似たような、まあ光学のレンズを使った機械を使ってつくるものとして、ヴィデオがとてもユニークなところは、そういった映像をつくるために、信号を使って絵を再現しているというところだと思うんです。そこのところがとても面白くて、それはひとつの光のツールとして考えると、本来は、いわゆるぼくらが考えているイメージというものを再現するためにつくられてはいるんですが、まったく別な用途に使えるだろうというところで、このパフォーマンス自体は始まった、というところです。

 

河合:もしかするとすごく音楽的な考え方なのかもしれないですよね。何か映像をひとつの音符みたいにして、書き表すということもできるかもしれないというふうに考えていらっしゃるんですね。

 

服部:そうですね、音楽的というか、ぼくらが、ヴィデオがすごく面白いポイントとしてあるというのをどういうふうに捉えているかというと、ヴィデオを三つの部分に分けて考えているんですよね。ひとつは光学的なカメラの部分というところと、もうひとつはその光学の映像を電気信号に変える部分、そしてそれを記録する部分という三つに分かれていると思うんですが、真ん中のこの電気信号に光学を変換したところ、そしてそれが電気信号になっていて、まだヴィデオテープに記録されていない、その中間の状態というのは、その映像というか、信号というか、映像=信号みたいなものが、ずっと止まることなくですね、進んでいるんですね。そこをコントロールしようとして作品をつくると、音楽的な要素とも似てくるのは、それは生の信号をどういうふうにコントロールしてそれを映像にまた返していくか。もしくはその映像をまた信号に戻して、またそれをこう変換するといったところでは、それは音楽に近いところがあると思います。


河合:なるほど。結構専門的な解説だと思うんですが、ぼくが思ったのは、石田さんの作品と連続してみたときに、石田さんは生の身体とか、やはり生の筆とか、そういういわゆるアナログなツールを使ってそういう抽象的なイメージをつくっていると思うんですけど、GOLDENSHIT の場合は、ヴィデオというのは電気で動いている機械なわけですよね。その今服部さんがおっしゃったみたいにそれが三つのパートに分かれるとかいうのも、機械を何か人間の身体みたいな感じで捉えていて、機械というひとつの身体のパフォーマンスみたいな感じにぼくは見えました。


新村:まあ基本的に何がやりたかったというと、ヴィデオテープで記録して、再生して、これが作品ですというようなやり方をやりたくなくて、もっと直接的にアーティスト同士が一緒に作品をつくれないか、というところで始まったんです。なので、機械は使っているんですけど、基本的にフィジカルなパフォーマンスだと思ってやっています。


河合:そうですか、わかりました。ありがとうございました。それでは今度は、狩野志歩さんの『燭(Candle)』という作品をご覧いただきたいと思います。

次:狩野志歩 『燭(Candle)』
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